ユリ熊嵐と棟方愛海の関係性
こんにちは、はじめまして。
このごろ棟方愛海という少女のことが気になってきたので、この記事を書くためにブログを開いてしまいました。
ブログなんて高校の頃以来ですね。よかったら読んでください。
ユリ熊嵐は2015年1月~3月にかけて放映されたアニメで、棟方愛海はゲーム-アイドルマスターシンデレラガールズの登場人物だ。
TVアニメ ユリ熊嵐 ゲーム アイドルマスターシンデレラガールズ
もしかしたら「別々に語れよ!」と怒られるかもしれない。けれどもしよければ、すぐに何かと何かを結びつけたがる哀れなオタクがいるなと思って容赦して欲しい。
一応どちらか一方しか知らない人にもわかるように書く努力はしたけれど、わからないかもしれない。また本記事はユリ熊嵐のネタバレを含む。
ユリ熊嵐は絵本のようなアニメだった。
幾原邦彦という監督は比喩的な物語を作ることに定評がある人だ。けれど、その幾原邦彦作品の中でもユリ熊嵐は比喩表現があからさまであることが特徴的だった。
「ここは比喩ですよ〜」と言葉が聞こえてくるような単純化された物語はどこか絵本的で。わかりやすくてカジュアルとも言えるし、鋭利さが増し挑発的にも思えた。
そぎ落とされた比喩は、その装飾の少なさゆえに想像の余地を広げ見る人によって姿を変えただろう。現代社会に照らし合わせはっきりとこれを指すのだなとわかる比喩もあったが、個人的体験に依存するであろうテーマも多かった。
むしろその受け取り方の違いを楽しむアニメだった。だからこれは私が見たひとつの切り取り方だ。
ユリ熊嵐の本質は1話冒頭に出てきた「クマは人を食べる。そういう生き物!」というナレーションにあると思う。
「クマは人を食べる。そういう生き物!」(1話・2話の冒頭のナレーションより)
そしてユリ裁判の時に問われる「あなたは透明になりますか? それとも人食べますか?」という問いかけにあると思う。
「あなたは透明になりますか? それとも人食べますか?」("ユリ裁判"での問いかけより)
クマの銀子は「人食べます」と答えることによって”ユリ承認”され人間の女の子になる。紅羽と本当の友達になるために人間の女の子になる。
そう、ここに背反が起こる。
人間の女の子である紅羽と本当の友達になるために、「人食べます」と宣言しなければならない。透明にならず、クマでなくてはいけない。
これが私はユリ熊嵐の本質のように思う。
「クマは人を食べる。そういう生き物」この台詞はなににでも置き換え可能な言葉だ。人が他人に向ける感情どれにでも当てはまる。
色欲・強欲・嫉妬・憤怒・傲慢。ユリ熊嵐はそういった全ての感情を肯定する物語だった。
棟方愛海という少女の話をしよう。
棟方愛海というキャラクターは200名以上が登場するアイドルマスターシンデレラガールズの中でも少し変わっている。もちろん200名以上いるキャラクター全てが個性的で魅力的なので、一段とすぐれた個性があるとかそういう意味ではない。
棟方愛海は女の子のお山を求めてやまない少女だ。彼女はアイドルになるようなかわいい女の子と触れ合いたくて、その胸を揉みたくてアイドルを目指す。
(棟方愛海 初登場時のカードより)
アイドルマスターはアイドルをプロデュースするゲームだ。だからプレイヤーにはプロデューサーというキャラクターが与えられるし、多くの人はその視点でプレイする。
その意味で、アイドルに近づきたくてアイドルになった棟方愛海はプレイヤーに近すぎる。ともすればプレイヤーがプロデューサーではなく棟方愛海の視点でプレイしかねないほどに。
けれど棟方愛海という少女はプレイヤーの分身ではない。彼女は棟方愛海という一人の少女だ。
では棟方愛海はどういう少女なのだろう。私たちオタクはいつもそうやって頭を悩ますのだけど。彼女という人をユリ熊嵐から見ていきたいと思う。
棟方愛海の台詞に「普段は猫かぶってるよ」というのがある。これは彼女が学校や家といったアイドルの世界の外では透明であったということを指す。
(アイドルマスターシンデレラガールズ スターライトステージ のルームでの台詞より)
けれど彼女はクマだった。
棟方愛海はお山を登る。そういう生き物。
けれど人はクマを遠ざける。それも当然。
だから棟方愛海は透明であることを選び。しかして、クマが透明になったところで本当の友達を得ることはできないのだ。
そして棟方愛海はアイドルの世界へやってきた。自身をクマでいさせてくれるプロデューサーの手を取って。
これから棟方愛海はどう進むのだろうか。
やっと解放されたと、クマとしていられる場所で気持ちの赴くままハンティングを続けるのだろうか。
ところでユリ熊嵐の銀子は、人間の世界にやってきてたくさんの女の子を食べたが、紅羽だけは食べようとしなかった。
紅羽が好きだったからだ。
終盤、銀子は己が欲望に飲まれかける。「好きは凶暴な感情。好きは相手を支配すること。一つになりたいと相手を飲み込んでしまうこと」そう欲望は語る。けれどそれを否定し、銀子は人とクマ二つの世界を分かつ友達の扉で自身の好きを証明する。
「友達の扉よ。月と森、二つの世界を分かつ空の真ん中。本物の好きが試される場所」(9話より)
そうして銀子は本当の友達を得る。
寂しがりやの棟方愛海はきっと最後には本当の友達を得るだろう。
それが誰かは私たちにはわからない。けれど毎日見ていて、もしある日彼女が誰かのお山を登ろうとしなくなったら、その誰かが棟方愛海にとって未来の本当の友達なのかもしれない。